モラル海域、奴隷の閾
  史実上の大航海時代における海上交易を考えるうえで欠かせない存在であるにも関わらず、‘大航海時代online’には登場せず、おそらく今後も追加実装されることはないだろう交易品が一つあります。今回はそこを起点に書きはじめてみようと思います。
  その交易品とはそう、‘奴隷’です。

▼奴隷とゲーム
  なぜこのゲームでは奴隷の売買が存在しないのか、という問いかけに対してはもしかしたら大半のひとが馬鹿らしいと感じるかもしれません。「そんなもの、常識的に考えて登場させるわけがない」とか、「モラルとして奴隷を扱わないのは当然」というような感覚がそこにはあります。ごく普通の感覚だと思います。
  ただ少し考えてみると、ここで判断の根拠とされる‘常識’や‘モラル’の在りかたは必ずしも自明ではないことが分かります。なぜならたとえばこのゲームにおける白兵戦では船員同士による殺傷が起きますし、大航海時代における冒険つまり奥地探索は多くの場合その土地土地からの資源収奪を前提として支援されていたわけで、殺人行為や組織的な強奪行為の再現を許容する常識やモラルが奴隷売買のみ禁じるというのはやはり筋の通った話ではありません。
  しかし人身売買は悪しき時代の遺産として現在ではタブー視されているのに対し、殺人行為や強奪行為は犯罪ではあり得てもタブーとされる因習ではなく、今日にあっても大義名分さえ通れば罪に問われることすらないので、この違いが恐らく商品としての奴隷のみがゲームの構成要素として忌避された理由に通じていそうです。国家による戦争と多国籍企業による資源搾取を現に許容している社会がそれらを再現する遊びを禁じきれるはずもありません。

  このため‘大航海時代online’を長く続けているプレイヤーのなかには、あたかも奴隷の運搬なしでも大航海時代の交易は成立していたかのような感覚を持つひとが出てきそうですが、よく知られているように実際にはこの時代の海上交易を構造的に下支えしていたのは奴隷売買そのものでした。タバコやテキーラ、カカオやサイザル麻などゲームでも登場するカリブ中南米の名産品群はこのエリアでのプランテーション経営によるものですが、それらは全てアフリカ西岸からの奴隷の搬入がなければ維持発展できたはずもなく、また地中海域においてもイスラム勢力により白人奴隷の使役が行われていたことは、イタリア南部出身で奴隷あがりの海将ウルグ・アリの活躍などを通じて‘大航海時代online’のプレイヤーにも広く知られているところでしょう。そもそも‘slave(奴隷)’の語の成立にはスラヴ人奴隷を扱ったヴェネツィアやジェノヴァ商人による黒海交易が寄与しています。新古典主義の画家アングルの≪オダリスク≫[1814]に見られるように、彼らの生き様にはある種の憧憬すら込められていたようです。

   La grande odalisque: http://cgfa.sunsite.dk/ingres/ingres8.jpg

  常識やモラルを安易に振りまわして他人を縛ろうとする物言いを憎むタチなのでわたしはこうしたことも考えます。しかしその皮肉屋の刃を自身に向けるなら、奴隷交易を戦争や資源収奪と無前提に比較してしまうわたしの思考軸もまた常識なりモラルなりに基づいていることに気づかされます。そこでこれらに共通する要素をあらためて考えてみると、そこには他者の否定という論理がどうやら通底していそうです。

▼他者否定というモラル
  奴隷、戦争、搾取。いずれも問題の核にあるのは、集団の暴力という形で他者否定を容認する社会システムそのものの姿なんですよね。ひとまとまりの消耗品として‘この船で最大300人運べる’、一度の白兵戦で‘50人削れる’、その農園の経営には‘奴隷1000人が必要’というというように、意識のうえでも人命が定量化され数値として処理されてしまう。船乗りにしても奴隷にしても一人ひとりがそれぞれに異なる生を歩み、それぞれに幼少時の記憶や傷や希望を抱えた存在であることがたやすく見過ごされてしまう。これほどおぞましいことはちょっと他にないようにも思えます。
  しかしながらわたしたちは、それらをモデルとしたコンピューターゲームを嬉々としてプレイすることができています。そういう都合の良い想像力の持ち主でいられることはある意味とても凄いことなんじゃないかと感心もするわけですが、一方でそうした偏向の特異さが人間の特徴なのだということは重々肝に銘じておくべきだろうとも思います。‘常識とは18歳までに身につけた偏見の集大成である’という言葉があります。ことの善し悪しとはまったく別の話として、ひと口に奴隷といっても属す社会や主人次第では、むしろ奴隷であることによってはじめて身の安全や精神の自由を獲得した例も少なからずあったはずなんですよね。
 
  “Theocracy”というゲームがあります。マヤ・アステカ文明を材にとった歴史シミュレーションゲームなのですが、この作品の途方もないところは捕まえた敵部族の民を奴隷化し労働力として使役できるほかに、神殿での儀式の生贄として捧げることで戦時の国力が増すシステムになっていたことなんですね。平時に畑や工房などで働かせていた彼らを怒涛のごとく生贄に捧げまくることで、神の恩恵を受けた兵士ユニットの戦闘力がどんどん上がっていく仕組みです。プレイしたのはもう5、6年は前のことで神事や歴史関連の英単語に苦戦しながらやっていたのですが、その経験が数年間の忘却をへて唐突に今この記事を書こうと考える素地の一つにもなっているようです。光栄の“信長・三国志シリーズ”やマイクロソフトの“エイジ・オブ・エンパイア”その他の海外物の文明系リアルタイムストラテジー等に比べても遜色のない出来映えなのですが、扱う時代がマニアックなうえにこの奴隷システムでは日本語版が製作される見込みは薄そうですね。(笑) もし日本人でこのゲームをしていたひとが他にいたら、いま‘大航海時代online’のプレイヤーである可能性はとても高いと思うのですが、いかがでしょうか。いらしたらぜひお知らせを。
  ちなみに時代を進めていくと大陸の東岸からイスパニアの侵攻を受けるのですが、これがもう少人数のユニットなのに空恐ろしい殲滅力を発揮します。対等な生き物ではなく黒い皮膚に身を堅め暗いオーラを発して炎の魔術を使う悪魔として描かれているのが印象的でした。(それぞれにコンキスタドールの甲冑、ペスト、火器を暗示していたのだと今になって思います) このゲームを作っているのがUbi Softというヨーロッパの大手ゲーム制作会社であることを考え併せると、この点が商品のモラルを巡るリスクからこのゲームを回避させる最大のポイントだったのかもしれません。

  しばらく前にプレイステーション3用の銃撃戦ゲームを巡って、マンチェスター大聖堂をゲーム内での舞台に使われた教会側が販売元のソニーに猛抗議したという報道がありました。いかにリアリスティックでも架空の世界という大前提があるゲームと現実社会におけるモラルとの軋轢を考える好事例となりましたが、これ、‘大航海時代online’にとって実はまったくの対岸の火事とは言えないんですよね。このゲームで初めてイスラムの港を訪れたおり、女性キャラがそのままモスクの内陣に入れてしまったことにはわたしもかなりの違和感を覚えたものですが、ゲーム化するためにデフォルメもしくは簡略化される細部が、異なる文化的背景をもつひとにとっては侮辱にも映りうるということは、この種のゲームにとっては宿命的に付きまとう難しいハードルなのかもしれません。
  当の銃撃戦ゲームを巡ってはブレア首相が国会の答弁で軽く触れたり、教会側がソニーにお布施を要求しだしたりとちょっと面白い展開を見せたようです。相手の弱点を突いて献金を要求するなんて、どこかのヤクザか商会長みたいという気もしますけど。(笑)

▼画像とおまけ
  画像はフランスの画家ギュスターヴ・ブーランジェの≪奴隷市場≫[1888]
  光栄の‘大航海時代シリーズ’では過去にも交易品としての奴隷が扱われたケースはなかったのかというと、どうやらそうでもないようです。以前にも紹介したハミルカル・バルカさんのブログでその事実を教えていただいたので、記事URLを以下に。リンク先コメント欄をご参照あれ。

  DOLルーツ探究 その1: http://hamilcar.blog64.fc2.com/blog-entry-465.html
  
なんとなく今回のような感じで、更新100回到達記念に新しい記事シリーズを始めてみるかもしれません。次回の予定テーマは、‘アヘン’または‘戦争’。記事カテゴリーの名前もまだ決めてないんですけどね。(笑)

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