有楽町のビックカメラが入る読売会館を北に回り、東京国際フォーラムの建つブロックへと歩く。ビルの谷間風が頬に当たる。遠くから見た有楽町駅改札の様子からは、どうも駅構内から乗客を退避させたらしい。ビックカメラも入り口から覗く店内は大型液晶やら携帯の仰々しい販売ブースやらで普段通りにまぶしいほどだが、道にはひとが溢れているのに出入りする客がいない。やはりいったん店を閉じたようだ。そういえばここまで歩く途上でも、建物から客を追い出している店を散見した。丸の内の高層ビル群の1,2階に入る高級雑貨店やブランドショップはどれも、全面ガラス張りの窓から通りへと目一杯に自店舗の魅力を訴えているが、贅沢で洒落たその内装が客を失ったことで何か主役不在のドールハウスのような奇妙さを醸し出していた。
しかしそうしてひとを店内から吐き出す処置は、果たして本当に良いことなのか。軽い違和感が走る。たしかに何が起きるかわからない状況で、店側が人的被害の責任を最小限に抑えるためには店内の客数をゼロにするのがベストだろう。だが多くの店がそのように最善の自衛策を個別に選んだ結果として、ビル群の谷間にひとがうごめいているこの状況はどうか。さらに激しい揺れが起きたとき、最初に大崩落を起こすとすればビル壁面に張られた大量の窓ガラスだろう。それを通りの人々が全身で浴びることになる。そうなればガラスの破片による切り傷や擦り傷だけで済む者、頭蓋骨を陥没させられて即死する者はむしろ幸運だ。周囲はきっと血の海になる。頸動脈を切られ、内蔵をえぐり出され、あるいは手足をもがれる者が続出し、一帯は阿鼻叫喚の地獄と化すだろう。ましてやJRだ。JRの鉄骨とコンクリートで守られた駅構内が、ビルの谷間の狭い車道によりも危険だとは到底思えない。それに構内から吐き出された、必ずしも土地勘があるとは限らない人々が付近の避難区域へと即座に集合できるはずもない。ひとを吐き出すなら吐き出すで、避難指定区域への誘導とセットでなければ巨視的には意味がない。
東京国際フォーラムの地上広場へ着く。ホール棟とガラス棟の間にあるこの広場にもやはり、ひとは入り乱れていた。“ガラスの船”として知られるガラス棟の正面入り口には、ガードマンやイヤホンをつけた職員が4、5名立ち並び、両腕を後ろに組み胸を反らせた姿勢で群衆の建物内への侵入を阻んでいる。衛兵然としたその威圧感に少し驚く。「お客さまの安全のため」という言葉の裏に本来はひそむべき“無用の責任は勘弁”という組織の本音が丸出し過ぎて、前衛コントのようなシュールさを感じた。なにしろ余震はまだ散発的に続いていて、“ガラスの船”の舷側のそと数十センチのエリアには、行き場を失った人々が群れているのだ。その真上に数十メートルのガラスの壁がそびえ建っている。主に会議室の多く入るガラス棟と広場に対面して建つホール棟群は地上階よりも2階3階のほうが広い構造だし、これで崩落規模の震動が来たらいったいここにいる何割が助かるだろう。しかしそうした想像が働くのは自分が目前の事態に何の責務も負っていないからで、何らかの職責を負ってこの場に遭遇した人々、つまり職員や駅員たちにとって重要なのは、仮にどれだけ違和感を覚えていたとしてもたぶん職責のほうなのだろう。だが結果として、その一見責務に篤い行動が客観的には単なる思考停止としか映らない、ということもまた十分あり得る話だ。ふとかつての福知山線脱線事故を思い起こす。あれなどまさに組織が要請する個々の職業意識の連鎖が、まだ若い一運転士の内面へと吹き溜まった挙句の速度超過ではなかったか。
広場のなかほどへと進み、土踏まずのあたりに疲れを感じたので近場にあったベンチへと腰をおろす。しばらく何するでもなくあたりを見回していると、屋外へ避難してたむろしているだけに見えていたビックカメラの店員たちの集団が、実はきちんと整列していたのに気がついた。10人ひと組の列が、よく見れば奥のほうまで20列近く並んで長方形の塊をつくっている。なんだろうとしばらく眺めていると、その集団のかたわらに大きなプラスチックケースが積まれていた。なかにはミネラルウォーターのペットボトルやスナック菓子、薬品類とおぼしきボックスや毛布などが入っている。ケースが積まれているといっても、それだけでは恐らく社員たちの分にしかならない。だが彼らが妙に気合が入った様子なのはなぜだろう。もしかしたら物資はもっと大量にあって、行き場をなくしたあたりの一般市民に配りだす意図でもあるのだろうか。まあそんなわけ、ないか。けれど、そういうことがあってもいいなと考える。ストック&フローを徹底した薄利多売を旨とする大型店舗の慌ただしい倉庫の物陰で、何年に一度も来ない出番をひっそりと緊急支援物資のひと山が待ち続ける。企業は利益を追求する。国は国益を最優先に行動する。だがその場合の利益国益とは本来何か。緊急時には見かけ上逆転しているような素振りを見せる集団こそ実は、より深い信念において揺るぎのない姿勢を貫いているといえる場合もあるだろう。
再び歩き始める。フォーラムの区画を北へ抜け、再び丸の内へ。ほんの2時間前とはまるで様子が変わっている。バス停は、バスの車内も外も黒山の人だかり。丸の内南口のそばに長蛇の列ができていて何かと思ってたどってみたら、列は中央口をまたいで丸の内北口のタクシー乗り場まで伸びていた。だが当のタクシーは一台も来ていない。だだっ広いタクシープールには虚しく寒風が吹いているだけだ。電車では帰れない、電話も通じない、歩いて帰るなど無謀、ゆえにタクシーを待つ列に並ぶほか打つ手がない、という思考経路をたどっているのだろう。だがその結果としてどうみても無意味な100メートル超のこの列に並ぶ選択を採ってしまうのは、純然たる思考停止にも思える。まだ混んではいるが来ているバスに並んでともかく都心を離れるとか、数ブロック歩いて流れのタクシーに期待をつなげるほうがマシではないか。まあ、五十歩百歩か。そうかもしれない。
少しからだの冷えを感じ始めたこともあり、いったん新丸ビルに入ってからだを温めることにする。ビルに入るとガラスの壁で隔てられた一区画で、多くの人が立ち尽して一方を見上げている。近づいてみると、彼らは壁2.5mほどの高さに嵌められた大型液晶の画面を、身動きじろぎもせず呆然と見つめていた。画面を見上げ、みなが呆然としている理由が即座にわかる。
……これは……なに?
つづく、かもしれず。
しかしそうしてひとを店内から吐き出す処置は、果たして本当に良いことなのか。軽い違和感が走る。たしかに何が起きるかわからない状況で、店側が人的被害の責任を最小限に抑えるためには店内の客数をゼロにするのがベストだろう。だが多くの店がそのように最善の自衛策を個別に選んだ結果として、ビル群の谷間にひとがうごめいているこの状況はどうか。さらに激しい揺れが起きたとき、最初に大崩落を起こすとすればビル壁面に張られた大量の窓ガラスだろう。それを通りの人々が全身で浴びることになる。そうなればガラスの破片による切り傷や擦り傷だけで済む者、頭蓋骨を陥没させられて即死する者はむしろ幸運だ。周囲はきっと血の海になる。頸動脈を切られ、内蔵をえぐり出され、あるいは手足をもがれる者が続出し、一帯は阿鼻叫喚の地獄と化すだろう。ましてやJRだ。JRの鉄骨とコンクリートで守られた駅構内が、ビルの谷間の狭い車道によりも危険だとは到底思えない。それに構内から吐き出された、必ずしも土地勘があるとは限らない人々が付近の避難区域へと即座に集合できるはずもない。ひとを吐き出すなら吐き出すで、避難指定区域への誘導とセットでなければ巨視的には意味がない。
東京国際フォーラムの地上広場へ着く。ホール棟とガラス棟の間にあるこの広場にもやはり、ひとは入り乱れていた。“ガラスの船”として知られるガラス棟の正面入り口には、ガードマンやイヤホンをつけた職員が4、5名立ち並び、両腕を後ろに組み胸を反らせた姿勢で群衆の建物内への侵入を阻んでいる。衛兵然としたその威圧感に少し驚く。「お客さまの安全のため」という言葉の裏に本来はひそむべき“無用の責任は勘弁”という組織の本音が丸出し過ぎて、前衛コントのようなシュールさを感じた。なにしろ余震はまだ散発的に続いていて、“ガラスの船”の舷側のそと数十センチのエリアには、行き場を失った人々が群れているのだ。その真上に数十メートルのガラスの壁がそびえ建っている。主に会議室の多く入るガラス棟と広場に対面して建つホール棟群は地上階よりも2階3階のほうが広い構造だし、これで崩落規模の震動が来たらいったいここにいる何割が助かるだろう。しかしそうした想像が働くのは自分が目前の事態に何の責務も負っていないからで、何らかの職責を負ってこの場に遭遇した人々、つまり職員や駅員たちにとって重要なのは、仮にどれだけ違和感を覚えていたとしてもたぶん職責のほうなのだろう。だが結果として、その一見責務に篤い行動が客観的には単なる思考停止としか映らない、ということもまた十分あり得る話だ。ふとかつての福知山線脱線事故を思い起こす。あれなどまさに組織が要請する個々の職業意識の連鎖が、まだ若い一運転士の内面へと吹き溜まった挙句の速度超過ではなかったか。
広場のなかほどへと進み、土踏まずのあたりに疲れを感じたので近場にあったベンチへと腰をおろす。しばらく何するでもなくあたりを見回していると、屋外へ避難してたむろしているだけに見えていたビックカメラの店員たちの集団が、実はきちんと整列していたのに気がついた。10人ひと組の列が、よく見れば奥のほうまで20列近く並んで長方形の塊をつくっている。なんだろうとしばらく眺めていると、その集団のかたわらに大きなプラスチックケースが積まれていた。なかにはミネラルウォーターのペットボトルやスナック菓子、薬品類とおぼしきボックスや毛布などが入っている。ケースが積まれているといっても、それだけでは恐らく社員たちの分にしかならない。だが彼らが妙に気合が入った様子なのはなぜだろう。もしかしたら物資はもっと大量にあって、行き場をなくしたあたりの一般市民に配りだす意図でもあるのだろうか。まあそんなわけ、ないか。けれど、そういうことがあってもいいなと考える。ストック&フローを徹底した薄利多売を旨とする大型店舗の慌ただしい倉庫の物陰で、何年に一度も来ない出番をひっそりと緊急支援物資のひと山が待ち続ける。企業は利益を追求する。国は国益を最優先に行動する。だがその場合の利益国益とは本来何か。緊急時には見かけ上逆転しているような素振りを見せる集団こそ実は、より深い信念において揺るぎのない姿勢を貫いているといえる場合もあるだろう。
再び歩き始める。フォーラムの区画を北へ抜け、再び丸の内へ。ほんの2時間前とはまるで様子が変わっている。バス停は、バスの車内も外も黒山の人だかり。丸の内南口のそばに長蛇の列ができていて何かと思ってたどってみたら、列は中央口をまたいで丸の内北口のタクシー乗り場まで伸びていた。だが当のタクシーは一台も来ていない。だだっ広いタクシープールには虚しく寒風が吹いているだけだ。電車では帰れない、電話も通じない、歩いて帰るなど無謀、ゆえにタクシーを待つ列に並ぶほか打つ手がない、という思考経路をたどっているのだろう。だがその結果としてどうみても無意味な100メートル超のこの列に並ぶ選択を採ってしまうのは、純然たる思考停止にも思える。まだ混んではいるが来ているバスに並んでともかく都心を離れるとか、数ブロック歩いて流れのタクシーに期待をつなげるほうがマシではないか。まあ、五十歩百歩か。そうかもしれない。
少しからだの冷えを感じ始めたこともあり、いったん新丸ビルに入ってからだを温めることにする。ビルに入るとガラスの壁で隔てられた一区画で、多くの人が立ち尽して一方を見上げている。近づいてみると、彼らは壁2.5mほどの高さに嵌められた大型液晶の画面を、身動きじろぎもせず呆然と見つめていた。画面を見上げ、みなが呆然としている理由が即座にわかる。
……これは……なに?
つづく、かもしれず。
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