2011.3.11メモランダム part4 <16時-16時半 数寄屋橋-日比谷>
  この身のうちに生じる感覚や思考を、当然のごとく受け入れることに初めて疑問を持ったのは何歳くらいのことだろう。まぶたを閉じると勝手に巡りだすイメージや感情の動きを、ひとごとのように眺める自分がいることにいつの頃からか気づき出していた。小学校でも保育園でも、「ぼーっとしてないで!」とよく先生から叱られたのを覚えている。そう言われるときに限って内面的にはかなり忙しかったりするものだから、いつもなんだか理不尽さを感じていた。いま視界を占めるこの雑踏を構成する一人ひとりが、この自分同様に輪郭すら定かでない感覚や思考を携えていることが、この歳になってなおきちんと了解できていない気がする。あるいは多くの人にとってのそれは、はっきりとした輪郭があるのだろうか。うまく想像できない。

  数寄屋橋の交差点近くまで戻ったとき、突如拡声器によるアナウンスが始まった。顔をあげると、交差点の十字路を行き交う雑踏や車の群れが目に入る。拡声器の声は、人だかりを越えて交差点向かいの奥に建つ、数寄屋橋交番からのものだとわかる。特徴的な赤レンガの尖塔屋根にでかでかと“KOBAN”の文字。パトカー側面に際立つ“POLICE”表示とは異なり、“KOBAN”のほうは何年たっても違和感が拭えない。音から銭形平次的ニュアンスも混じり込み、外国の色々間違ってるサムライ映画みたいな心象が沸き起こる。実直さが滑稽さをなぜか呼び込んでしまうお馴染みの回路も、このように表出してくると憎めない。そのKOBANのてっぺんあたりから周囲に振り撒かれているアナウンスは、中年男性の低くしわがれた声で電車が止まったことを告げている。男の声は止まった路線の名を一つ一つ挙げていく。

  「JR山手線全線、京浜東北線全線、東海道線全線、総武線全線・・・・東京メトロ銀座線全線、日比谷線全線、……都営三田線全線、浅草線全線……」

  要するに、全部だ。そして最後のひとことが、致命的にひとの波を揺るがせてゆく。

  「……JR各線は、全線で終日運休の見通しです。」

  嘘だろう、とはじめは思った。恐らくこれを耳にした通行人の誰もがそう思ったのではないか。運行をあきらめるタイミングがいくらなんでも早過ぎるし、それに比べて決断の影響が大きすぎる、ように思えた。当のJRではなく警察による告知だし、言句の行き違いが起きたか、とも。だが直後に、嫌な予感が心中をかすめる。つい先ほど見た、パトカーが有楽町駅への小道をふさぐ光景が脳裡をよぎった。あのとき道を封鎖するほどの事態は確認できなかったが、いま思えば予兆はあった。有楽町駅前の車道に、電車の運行再開を待つ人々が一部あふれ始めていたのだ。手持ち無沙汰に数人で世間話を交わすグループの群れが歩道からはみ出し、縁石のブロックにしゃがみ込んで携帯画面を覗き込んでいるひとも散見した。周辺から駅へと向かうひとの流れが、そこへ怒涛のごとく注ぎ込んでいる。もしいま車両が列をなして加わっていたら、ひとも車も身動きがとれなくなっておかしくない。
  あのパトカーによる封鎖は、それを読み込んでいたことになる。現下の異常に対する逐次対応ではなく、そうした防災対策がもともとあったということだ。そこから何が導き出せるか。《震度~以上であれば、~計画を施行》というような約定が、あらかじめ鉄道や警察等の各種公共機関のあいだで交わされ、いままさにその発動下にあると考えたほうが筋が通る。そうなれば日本人が集団化した際に発揮される持ち前のリジッドさから、組織体ごとの判断よりも計画全体の着実な施行が優先されるのは間違いない。つまり、危険性の如何に関わらず、

  “JRは、ほんとうに終日動かない可能性高し”

となる。いよいよ極まってきた。といって周辺の人々に、「電車待っても無駄ですね、本気で再開しませんよ」とはむろん説かない。これは個人の勝手な憶測に過ぎないし、その憶測によれば《利用客に迫る危険が電車を終日止めさせる》のではないからだ。待ち続ければ寒い思いはするだろうが、たぶんそれだけの話でしかない。というわけで、一人ひっそりと場を離れる。
  けれどそうしてもし憶測通りの横断的連携がこうも速やかに図られているならば、その結果として都心の特定区画にひとが集中してゆくこの状況は、果たして立案者の予見のうちにあるのだろうか。“仕方ない”、“しようがない”という人々のあきらめによって受け流され、忘却されゆく事象のうちに、特定の個人や集団のみに都合の良い事情が潜むというのはよくある話だ。気づきにくいだけで、恐らく身のまわりじゅうにあるのだろう。そして時にはそれが、大量の人々を決定的な悲劇へと巻き込んでいく。国や企業が起こす大事故の本質はそこにある。良いほうに流れているのか、悪いほうに流れているのか。すべてが進行中のさなかにあってそこを見極めるのは結局、個々人の判断力に拠るしかない。

  首都高ガード下を再度くぐる。ガード下ショッピングモールの商売熱がセールのワゴン数台分、歩道へと乗り出している。しかしいまやワゴン上の商品に目を遊ばせる通行人は一人もいない。たとえばこの数寄屋橋交番の背後に長く横たわる、首都高ガード下の古いショッピングモール。高架道路に沿って蛇のように伸びるこの数寄屋橋のモール街は、実は蛇行線がそのまま千代田区と中央区の境界線に相当して、かつ税制的にはどちらにも属していないという話がある。首都高が開通した東京オリンピック以来ずっと、税収の行き先が問われないまま自民党系の某派閥の懐へ流れ続け、それを知る古株メディア関係者も多かったがタブー視されたままみな引退を迎えている、という類の都市伝説。数寄屋橋という橋が現存しないことからもわかるように、この蛇行線の地下部分にはいまも暗渠化された河が流れており、河幅の中央に引かれた区境は理念上の存在でしかなかったという経緯に、この話の暗さと多重性がより強く印象づけられた記憶がある。個別の真偽はともかく、そうした風に各種の利権構造がまだら状に散らばるのが都心の本当の姿なのだろう。土地関連、電気やガス、通信、物流等々、生活のあらゆる面で支払う代価の配当先を熟知する者など恐らく皆無だし、あるいは古来よりそれらを暗黙の了解としてきたのが人間社会というものなのかもしれない。

  駅とは別の方向、JRのガード下をくぐって日比谷へとさらに歩く。ならばいまこの異常事態のさなかで、つまりそれぞれがそれぞれにまず己の保全を優先して動くだろう状況下で、本来の異常さとは別の理由がさらなる混乱を生むとすれば、何が起こり得るだろう。日比谷公園へ向かうことを思いつくが、周囲のビルからの避難者に混じってもできることはないので却下、右折して北上開始。道路の向こうに望める皇居前広場の樹々はひとの混乱をよそにいつも通り整然と並び、濃緑のシルエットを作っている。背景の灰空はビルの谷間に挟まれているせいか、いつもより高く見える。この冬空のもと、関東平野一帯で大量の鉄道車両が全停止している光景が脳裡に浮かぶ。車両はいずれもエンジン音を鎮め、台車部分から弱々しく水蒸気を吐き出している。排気口から水滴が一粒したたり落ちる。車輪によって磨かれたレールの鏡面が、落下した水滴を弾き飛ばす。銀色の鏡面には、遠く離れたホームで電車を待つ人々の立ち姿がミクロに映り込んでいる。
  家まで歩く可能性を視野に入れてまずは大手町を北へ抜け、神田を目指すことにした。


  つづく、かもしれず。

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