魔坑にて 弐: ネット人格にプライドはありうるか!?
2009年3月12日 ネットゲームの魔坑にて コメント (26)
先月の記事「転売バザーの生態調査!」は、結果的にコメント欄こそが記事本体というような展開を見せました。良い機会なので、新しく『ネットゲームの魔坑にて』と題した記事シリーズを立てておきます。
今回は、先月の記事「転売バザーの~」に付いたコメント36番目の全文転載から始めます。以下転載部分を囲みにて。HN“既に遅いですが。”さんより。
転載以上。話が色々盛り込まれているので、まず気になる文節ごとにレスを。
> #タガが外れているから痛い人が目立ちますが。
その‘タガ’のかなりの部分が共同幻想に基づいているんですよね。けれども、ネットゲーム内部であれば自身の‘タガが外せる’と判断してしまえる発想自体も実は丸ごと、当の共同幻想に規定されているわけです。つまり、‘ゲーム内だからという理由でタガを外した行為にでる自分’を、リアルの自分は自覚的であれ無自覚にであれ受け入れざるを得ない。けれどもそうした‘お約束’を知ってさえいれば、ゲーム内だからと‘タガ’を外してしまうのが本当は自分を貶める行為であることに気づけます。これは匿名掲示板などについても言えることです。
ポイントは、そこで貶められるものが「他者関係のなかで維持確認される自尊心」ではなく、「自分の自分自身へ向けたセルフリスペクト」であるということですね。両者の違いが分からないのは端的に幼稚さの証ですから、‘そのように見える’言動をするひとに対して周囲のプレイヤーはごく常識的に‘痛い’と感じてしまうわけです。
たとえば匿名による短絡思考の書き捨てや他者への中傷行為が、よく言われるように自身を安全圏に置いた行為ではありえず、実は自意識の基底レヴェルで深刻な自傷被害をもたらしていることに、やっている本人たちは無論気づきません。気づかないからこそどんな悪言を吐いても自分は傷つかないと誤認できるのですが、しかしそこで損なわれた、あるいは未成熟ゆえあらかじめ脆弱な自己評価こそが、その後の各人の実像をじかに形成していくという現実には抗いようがありません。
ちなみに、こうしてたかがゲームを巡って長文を巡らせるgoodbyeの身振りなどもまた、別の意味でごく常識的に‘痛い’ひとに見えているはずです。だとすれば、そんな人間のつらねる言葉を延々とここまで読み続けてきたあなた、コメントをいただいたHN“既に遅いですが。”さんではなく、コメントは書き込まずともウォッチャー感覚で面白がり今モニターに向かっているそこのあなた、もまた当然のことながら、まぎれもなく同様に、‘痛い’です。この局面では匿名性の有無が無意味化するのも、自らの行為に対しセルフリスペクトを保てているか否かこそが分水嶺になるからです。ならばもう、一緒に芝生を育ててしまうのもありですね。
> ・なぜPKをやっているのか。
そこでやや小難しい言い方のまま続けてしまいますが、ネットゲーム内部に侵入しているその共同幻想の‘輪郭’をより見極めたいというのがPK(Player Killer:他のプレイヤーを直接攻撃するひと)のスタイルをとる動機の前提にあるような気がします。このゲームを始めた初期のわたしは、「PKなんて超迷惑なだけじゃん。色付きの人らって、ちょっと頭おかしいんじゃない?」くらいに思う種のひとたちに、心情的にはむしろ近かった気がします。ただ“なぜそう思うのか”に時を待たず興味が移ったことは、いま思えばPKへの不快さを不快さのまま抱え続けるプレイヤーとの分岐点だったのかもしれません。これに続けて、↓
> ・なぜゲーム内の自らのキャラ名を晒してブログを書くのか。
キャラ名によるプレイヤーブログの存在を始めて知ったときも、「なんなんだこのひとたち、たかがゲームに入れ込み過ぎてちょっちキモイ」くらいに感じたものです。ブログというのはもっと日常や思考生活を広範に扱うものという先入観があったんですね。だからとりあえず自分でもやってみた、というのが理由の一つ。いざ始めてみると、内面的にこれはこれで継続するに足る一本の芯が通ったというのがもう一つ。
つまり当ブログの存在は3年前のわたしにとってすら、キモイ。いはんや世人にとりてをや。
> ・転売行為の是非はともかく、行為は悪質だと感じてらっしゃいますよね?
あるひとの抱えもつ‘善意’は、他者によっては通用しないケースが大いにあり得るという点で極めて主観的なものですよね。鄭和さんがコメントでそれを‘信仰’と表現された通り、その基盤には祈りにも近い深く個人的な思惟、もしくは他者に対する安易でイノセントな思い込みがあります。そしてこの基準に照らせば悪質と判断するしかないというニュアンスで、転売一般にではなく個別特定的に片桐さん(≒目の前で転売を始めてしまうスタイル)に対して、確かにわたしは悪質だと感じています。もっともそれ自体は記事中から読み取れるとしても話を俎上にのせるためのブースターに過ぎず、その行為を行為者本人が悪質と考えてやっているかどうかという別の問題こそが、個人的には関心の焦点だったわけです。
ただしこのことも、いわゆる‘中のひと’の人間性と短絡できるような直接関係はないと考えています。ここから以下、各論的なレスを一度離れます。
▼画像と予告
というわけでここからが本論部なのですが、すでに長過ぎるので一旦切って今回は終わります。続きはまたいつか。右上画像は、オスマン帝国との‘契約’前に終えたイスパニアイベントと、各国亡命行脚中の一光景です。鄭和さんとネモッティさんの画像は事前了承なしの掲載です。鄭和さんはこの記事でも再度お名前を拝借してますのでご登場いただきました。ネモさんは長く敵対私掠の間柄でしたが、実はそれ以前の低レベルの頃からフレだったりします。ないと思いますが万一画像掲載に問題あれば削除するのでお知らせを。
また今回の新記事シリーズ開始にあわせ先月の記事を事後的に「魔坑にて 壱:転売バザーの生態調査!」と改めます。記事シリーズ検索は左欄下方(テーマ別一覧)にて。
この記事シリーズは、読み手のかたからの反応によって後続するテーマを変えていきます。「壱」にいただいた反応から、見切り発車によるそうした方法もアリなのに気づきました。こうした経緯のため、「壱」へのコメントも、今後は当記事シリーズの最新記事にいただけると流れ的にまとめやすく、助かります。
忌憚ないコメントがいただければ、その流れから見えてくる新たなテーマもありそうだと期待します。ぜひ思うところをお気楽にコメントお寄せください。よろしくです。
今回は、先月の記事「転売バザーの~」に付いたコメント36番目の全文転載から始めます。以下転載部分を囲みにて。HN“既に遅いですが。”さんより。
初めて拝見しましたが、君たちまとめて面白いw
言いたいことがあるなら言えば良いし、やりたい事があるならやれば良いと思うんだ。好きなように自由にね。ただ他人に迷惑をかけている人は、バッシングされる事は覚悟しないと。
後、引っ掛かったのが・・・
>読み手のほうで勝手に読み取った掲載意図を頑なに信じ込んで、疑いもなくこちらにぶつけてくる
これ現実社会でも多いですよね。
逆を言えばDOLって見事に現実社会の縮図な気もします。
#タガが外れているから痛い人が目立ちますが。
本来全員日本人なのに、ゲーム内国籍に色が出てくるのも興味深い。
人が少ないから濃い人に引っ張られやすいのか、別の何かなのか。
映画で言うと"es"なんですか、コレについてのgoodbyeさんの考察が聞いてみたいな。
ついでにgoodbyeさんの心理にも興味が
・なぜPKをやっているのか。
・ゲーム内の自らのキャラ名を晒してブログを書くのか。
・(鄭和さんへのレスを読むに)転売行為の是非はともかく、行為は悪質だと感じてらっしゃいますよね?
転載以上。話が色々盛り込まれているので、まず気になる文節ごとにレスを。
> #タガが外れているから痛い人が目立ちますが。
その‘タガ’のかなりの部分が共同幻想に基づいているんですよね。けれども、ネットゲーム内部であれば自身の‘タガが外せる’と判断してしまえる発想自体も実は丸ごと、当の共同幻想に規定されているわけです。つまり、‘ゲーム内だからという理由でタガを外した行為にでる自分’を、リアルの自分は自覚的であれ無自覚にであれ受け入れざるを得ない。けれどもそうした‘お約束’を知ってさえいれば、ゲーム内だからと‘タガ’を外してしまうのが本当は自分を貶める行為であることに気づけます。これは匿名掲示板などについても言えることです。
ポイントは、そこで貶められるものが「他者関係のなかで維持確認される自尊心」ではなく、「自分の自分自身へ向けたセルフリスペクト」であるということですね。両者の違いが分からないのは端的に幼稚さの証ですから、‘そのように見える’言動をするひとに対して周囲のプレイヤーはごく常識的に‘痛い’と感じてしまうわけです。
たとえば匿名による短絡思考の書き捨てや他者への中傷行為が、よく言われるように自身を安全圏に置いた行為ではありえず、実は自意識の基底レヴェルで深刻な自傷被害をもたらしていることに、やっている本人たちは無論気づきません。気づかないからこそどんな悪言を吐いても自分は傷つかないと誤認できるのですが、しかしそこで損なわれた、あるいは未成熟ゆえあらかじめ脆弱な自己評価こそが、その後の各人の実像をじかに形成していくという現実には抗いようがありません。
ちなみに、こうしてたかがゲームを巡って長文を巡らせるgoodbyeの身振りなどもまた、別の意味でごく常識的に‘痛い’ひとに見えているはずです。だとすれば、そんな人間のつらねる言葉を延々とここまで読み続けてきたあなた、コメントをいただいたHN“既に遅いですが。”さんではなく、コメントは書き込まずともウォッチャー感覚で面白がり今モニターに向かっているそこのあなた、もまた当然のことながら、まぎれもなく同様に、‘痛い’です。この局面では匿名性の有無が無意味化するのも、自らの行為に対しセルフリスペクトを保てているか否かこそが分水嶺になるからです。ならばもう、一緒に芝生を育ててしまうのもありですね。
> ・なぜPKをやっているのか。
そこでやや小難しい言い方のまま続けてしまいますが、ネットゲーム内部に侵入しているその共同幻想の‘輪郭’をより見極めたいというのがPK(Player Killer:他のプレイヤーを直接攻撃するひと)のスタイルをとる動機の前提にあるような気がします。このゲームを始めた初期のわたしは、「PKなんて超迷惑なだけじゃん。色付きの人らって、ちょっと頭おかしいんじゃない?」くらいに思う種のひとたちに、心情的にはむしろ近かった気がします。ただ“なぜそう思うのか”に時を待たず興味が移ったことは、いま思えばPKへの不快さを不快さのまま抱え続けるプレイヤーとの分岐点だったのかもしれません。これに続けて、↓
> ・なぜゲーム内の自らのキャラ名を晒してブログを書くのか。
キャラ名によるプレイヤーブログの存在を始めて知ったときも、「なんなんだこのひとたち、たかがゲームに入れ込み過ぎてちょっちキモイ」くらいに感じたものです。ブログというのはもっと日常や思考生活を広範に扱うものという先入観があったんですね。だからとりあえず自分でもやってみた、というのが理由の一つ。いざ始めてみると、内面的にこれはこれで継続するに足る一本の芯が通ったというのがもう一つ。
つまり当ブログの存在は3年前のわたしにとってすら、キモイ。いはんや世人にとりてをや。
> ・転売行為の是非はともかく、行為は悪質だと感じてらっしゃいますよね?
あるひとの抱えもつ‘善意’は、他者によっては通用しないケースが大いにあり得るという点で極めて主観的なものですよね。鄭和さんがコメントでそれを‘信仰’と表現された通り、その基盤には祈りにも近い深く個人的な思惟、もしくは他者に対する安易でイノセントな思い込みがあります。そしてこの基準に照らせば悪質と判断するしかないというニュアンスで、転売一般にではなく個別特定的に片桐さん(≒目の前で転売を始めてしまうスタイル)に対して、確かにわたしは悪質だと感じています。もっともそれ自体は記事中から読み取れるとしても話を俎上にのせるためのブースターに過ぎず、その行為を行為者本人が悪質と考えてやっているかどうかという別の問題こそが、個人的には関心の焦点だったわけです。
ただしこのことも、いわゆる‘中のひと’の人間性と短絡できるような直接関係はないと考えています。ここから以下、各論的なレスを一度離れます。
▼画像と予告
というわけでここからが本論部なのですが、すでに長過ぎるので一旦切って今回は終わります。続きはまたいつか。右上画像は、オスマン帝国との‘契約’前に終えたイスパニアイベントと、各国亡命行脚中の一光景です。鄭和さんとネモッティさんの画像は事前了承なしの掲載です。鄭和さんはこの記事でも再度お名前を拝借してますのでご登場いただきました。ネモさんは長く敵対私掠の間柄でしたが、実はそれ以前の低レベルの頃からフレだったりします。ないと思いますが万一画像掲載に問題あれば削除するのでお知らせを。
また今回の新記事シリーズ開始にあわせ先月の記事を事後的に「魔坑にて 壱:転売バザーの生態調査!」と改めます。記事シリーズ検索は左欄下方(テーマ別一覧)にて。
この記事シリーズは、読み手のかたからの反応によって後続するテーマを変えていきます。「壱」にいただいた反応から、見切り発車によるそうした方法もアリなのに気づきました。こうした経緯のため、「壱」へのコメントも、今後は当記事シリーズの最新記事にいただけると流れ的にまとめやすく、助かります。
忌憚ないコメントがいただければ、その流れから見えてくる新たなテーマもありそうだと期待します。ぜひ思うところをお気楽にコメントお寄せください。よろしくです。
コメント
と言われそうな質問に対し丁寧にレスを頂きありがとうございます。
これを機会に少しgoodbyeさんの思考の世界に浸ってみようかと。
回答に関してはなるほど、発言者ですら気付かなかった切り口でまとめられており、お見事。
PKにはIQの高いパターン、EQの低いパターンがあると思います。
(ごくまれに両方備わっている人もいますが)
EQの低いパターンは論外として、個人的趣味としてIQの高い人がなぜPkを行なうのかに興味がありました。
多くはRPのためではありますが、goodbyeさんはもう一段高い所にいるような気がしたんです。(DOLとブログと両方を用いて壮大な検証をしている印象w)
ついでに前エントリにて、"goodbyeさんが本質的に語りたいのはどこか?"という疑問が私には難解で消化不良を起こしそうでしたが、少し解決に。
すると"片桐コーヒー >>>でも、無意識に逃げてることも、もちろんあるでしょうな。"という台詞から得たものが何であったのかが気になります。
また、もう一つのテーマ。行動原理についてもいつかお願いしますね。
"群集心理""英雄論"いろんな切り口があり面白いかと。
ここのブログは読むと思考がぐるぐる回ってくるので長文になり失礼しました。
以下コメントが続く事を願います。
過去ログを読めばわかるのですが(笑)、わたしのPKとしての活動期間はごくわずかだったり。それに加え直近の2月がそうでしたが、賞金首だけどPKしない期間が結構長いので、課金日数に換算すると5%以下かな。なのでPK一般を扱う思考に絡める素材としては不適格かも。ともあれ本文では流れをつくるために、質問個々への応答としては主観的にも不足な部分が生じました。2点だけ補足すると、
・現にPKをしている理由としては、もちろんゲームとしての面白さもあります。また週末の夜、恒常的にゲームに集中する時間をとる“模擬軍人”のスタイルがとれなくなった事情もあります。
・リアルとの外見上の切断という点では、「たとえば匿名による短絡思考の~」の箇所と、「なぜ自らのキャラ名を晒して~」というご質問には通底する問題軸がありますよね。キャラ名による言動と匿名のそれとはこの水準で重なる部分が大きく差異もまた決定的という辺り、要記事化ですね。
しかしこの文脈で自分のIQに言及されるとはw あの手の‘裏面’を読むテストは幼い頃から図抜けて得意だったので、内心で尊敬している頭脳明晰な友人たちの多くより自分が今でも高数値を叩き出すだろうことは予想できます。しかしそのことで、自分にはない彼らの凄さはまるで揺るぎません。検査法に問題あり。壮大な検証とおっしゃいますが、人生は壮大な実験であるという英語の慣用句も。左欄にて相互リンクのあるいずれも、この意味では等値ですよね。読み手“一般”に向けた意識配分は恐らく大きい方なので、違いがあるとすればそこでしょうか。
あとこれはきちんと応じれば禅問答にしかならないと前置きしますが、‘本質的に語りたいこと’というのは本当に語りうるものなのでしょうか。だとすればそれは本来的な意味での‘本質’ではなく、ただの言葉に頽落する危うさを感じます。「でも、無意識に逃げてることも、もちろんあるでしょうな」は、それ自体ただの言葉ですよね。発話者の意図とも聞き手の解釈とも無関係に、その台詞を得たこと自体が主観的にはチャットの成果でした。しかし成果として受容した‘感覚’は、そこに何を読み取るかという‘思考’とは、本質的には別物だと思うのです。
ただこういう記述は、読むひとのタイプによっては不愉快なだけかもしれません。わかる/わからないの判別のみに重点がある短絡思考系にとっては特にそうでしょう。であれば「こいつ意味ワカンネー」と感じつつ二度と見に来ないことをお勧めするわけですが、こういうひとたちに限ってたぶん何度も来たりします。そこは面白いところですよね。
で、彼らのために一番簡潔に答えるとすれば、『「でも、無意識に逃げてる~」という台詞から得たものは、その台詞自体である』となります。これではきっと意味わかりませんよね。
映画“es”についてどう答えようか思い巡らせたところ、モノクロ時代のドイツ映画まで連想が及んでとりとめがなくなりました。東京お茶の水のアテネフランセや渋谷のゲーテ・インスティテュートには、アジアでは恐らくそこだけにしか残存しないムルナウやシュトロハイムのフィルムが結構あるんですよね。今でも時々上映会にかかるはずですが、十代の後半に通い詰めたのは良い思い出だし財産になりました。流れに即したレスは、まあ後日。
あとたぶんこの記事はあまりコメント付かないと思います。そう思う根拠には「魔坑にて 壱」とは逆の試みも含まれるので、上手くいけば後述します。「壱」より反応があったら想定外ですが、それはそれで読めてない分、その事態にも興味はあります。
としか思えないので、どのあたりにそれを感じたのかお聞かせいただければ幸。
とはまた随分挑戦的なことで。
ソーカルごっこですかそーですか。そりゃ伸びないでしょうよ。
IQに言及されてはしゃぐような痛RPでまさか釣られるとクマー!
宮台、東。名前を出すことで5歳刻みの年代は見えますね。
ぐぴさんなら浅田で返すと思っていたので軽くショックでした。
教祖より若い偽中華なんて許せないキー。
まとめると、海戦記事待ってます。海戦記事待ってます。
大事なことなので二度言いました。
まあこれブログですから、適宜ネタはとります。でも狙いとか挑戦的という表現はハズレですね。そも個別に興味が持てるものでもないでしょう。むしろ「ごっこ」「はしゃぐ」「5歳刻み」、ここらへんが個人的に釣り、どーん。という感じ。ってこの段落は少し内輪です。
あとショックを緩和できるか微妙だけれど、その3人で話したことがあるのは浅田さんのみです。でも人口に膾炙した名を出すだけで何かを表出しちゃう種の発想自体がとてもつまらないですよね。東さんの名を出したのは、「宮台みたい」で相手に通じると思うひとならそう対置すれば少しはそのつまらなさが伝わるかもと思ったからです。よって5歳刻みに見るべきは、想定されうる‘宮台’読者の年代です。
まとめると、海戦記事待ってます。なんて要望は偽りです。 再見。
全然似てないと思いますが、露悪趣味のつりどんさんですね。でも正直ry
・・・わかる/わからないの判別ループつまんね。
キャラ名を出せということなら晒してもいいですが、無名なので意味もない。
記憶ではあなたとも一度しかお話ししたことがないですから。
浅田さんの伯父の後輩にして、今は亡きある人物の名前を間違えて
シャウトしてらした時にTELLしましたよ。これでおk?
これまでこのブログを、読めば読むほど誤解の余地が少ない明晰な文章
として(もちろん、誠実な体温や、馥郁たる余韻には欠けるけれど)
愛読してきただけに、今回の記事はなんだかなあと。
コメントへの反応はお定まりの”溝の外周に杭を打つような”調子なのに、
急に読み手にもたれかかるような記事投げるもんだから、ネタ化のつもり
でも、釣りにしか見えないわけですよ。
デカい釣り針投げ入れて、いやこれは錨ですと言われても。
まだポエムの方が面白かった。
個人的にはやっぱり昔書いてらした海戦総括が読みたいんだなあ。
たとえ1か月遅れでもね。
それを書けるだけの視野と腕を相備えるのはN鯖であなたぐらいだから。
三文字さんもそう思わない?w
記事本文は、書きたいことが難解な範疇に入る場合でも、関心さえあればどのひとにもわかる表現にできるだけ近づける努力はしています。これでも(笑)。 ただコメント欄は場合によってそういう配慮は省略してます。なのでもし本文についてであれば、どこらへんがわからないか特定してもらえると助かります。引用符とか面倒ならTellでもいいので。
あと、‘低脳’について。茂木健一郎さんがNHKで、「あたし頭が悪いんですけど、どうしたら良くなるんでしょうか」と質問してきたお婆さんのエピソードを紹介される途中「一番厄介なのは自分では頭がいいと思っているバカだ」と珍しく非NHK向けな発言をしていたことがありました。これ、ホントにそうなんですよね。ものの見かた考えかたが違う、というだけのことに優劣を持ち込むことが、どだい無意味だと思います。自己評価については特にそう思います。
まず、「これでおk」ってことはありません。匿名発言に対しあなたは誰なのかと問うのは、基本的には無駄ですよね。ただ一連の言葉選びに商会内のある人物によるいたずらの可能性を感じたので、彼も知っている別人の名を出していじり返したつもりだったのですが、全然別人であるなら興醒めでした。よってあなたのキャラ名は不要だし、履歴の披露も無用です。
で、縁のないかたからもらうコメントとしては、「海戦記事待ってます」が本当に「大事なこと」なら、最初のものは書き方に失敗しているように思います。今日のコメントも、それによって海戦記事を書こうという気持ちはまったく促進されませんでした。友人でも商会仲間でもない人間に投げかける期待としては文章が馴れ馴れしすぎるし、2chと言語空間の区別が付いてないというか、つまりまともな要望にはまったく見えない。
またどの記事も、それを楽しんでもらえる読み手の心理をわたしなりに想像して書いています。今回のみ「愛読」できないとして、それをこうした物言いで吐露してくるひとは、書き手としてはとくに読んでもらいたい相手ではありません。べつに読みに来るのは構わないけど、同じ調子のコメントはもういらないかな。匿名の吐き捨ても含め、今年付いたコメントのなかでは一番内容を感じません。「誠実な体温や、馥郁たる余韻」にあふれたブログを書く自由があなたにはあります。こんなところで他人におもねらず、今後はそちらでがんばってください。
馴れ馴れしすぎるとのこと、失礼しました。お詫びして退出します。
ともあれ、ネット人格にプライドはありうる、という命題はご自身で例証された
ようで。わかりやすく身をもったご説明ありがとうございました。ではでは。
【匿名による承認欲求という形態】
自己承認欲求はひとの場合、生存本能に結びついたまぎれもなく最強の社会的欲求ですが、その強度ゆえそれのみが暴走する光景は、子供のぐずりやパートナー同士の喧嘩などよく見られるものですよね。おもちゃ売り場で泣きじゃくったり、「わたしと仕事どっちが大事?」などと古典的な問いが出るのも、その欲求が過剰に前面化したゆえという部分は大きいでしょう。
彼のコメントに‘内容のなさ’を感じたのはまさにこの点でした。たとえば直近のコメントはこの意味で、謝罪に続け精一杯の皮肉を残し、一転謝意を述べるというわかりやすい形に収まりましたが、他のコメントも動機的にはまったく同型なんですね。つまり過去記事に対するおべっかも今回の記事に対するケチも、自キャラへの言及も「海戦記事」への期待もすべて入れ替え可能で、一つ一つは恐らく彼にとってすらどうでもいい。彼にとって重要なのはそれらを通じ、ただ彼自身の発言が承認されることのみ、のように思えます。
このため、「まとめると」以降の体裁上の期待がもし本音ならば「馴れ馴れしい」としたのに対し、まさにそこだけを捉えて謝罪してしまうのも容易なわけです。むしろその体裁を認めねば、全体が支離滅裂になってしまう。しかしこうして内実のない言葉だけが上滑りしてゆくために、結局はレスのためのレス、つまり皮肉の吐露にしか落ち着かない。よってそこだけなら誠実な謝罪とも映る「お詫びして」の一文が、後続の一文によって軽く覆っていることに、当人は何の不整合も感じないはずです。
【他人のブログ、という場】
しかし最後の吐き捨てに「プライド」の語を含めてしまったこと、敢えて言えばここに一番の‘内容’を感じました。こうしたコンプレックスのありかたは、この場より実は迩隗羅さんのブログでの彼のコメントによく現われています。(左欄にリンク) 彼による当ブログでの二番目のコメントと同時間に書き込まれているのですが、結局この人物にとって何が大事かがよく表出しています。そちらも他とは意味的に不整合なコメントですが、無論当人には何の疑問もありえないことでしょう。匿名でありつつも同じHNでなければ伝わらない自己を、そちらでは迩隗羅さんに承認してほしいという顕れが第一に重要であるためです。
自分の親や恋人に対してではなく、赤の他人のブログでしかも匿名によって他者承認を求めようとするこの種の書き込みは、一般的にもまま見られることですよね。大抵はスルーされるか軽くいなされて終わるのですが、無論どう対応されようとも匿名であるという出発点において、当人のつらさは解消されずに終わるはずです。当人が十代以下の未成人なら要成熟で済まされる部分もあるでしょうが、もし二十代を超えた成人でこれをやってしまうとすればみっともない気はします。
しかしそこはそれです。「2chと言語空間の区別が付いてない」ともすでに述べた通り、こうした精神防御的な回路が、ネット上の匿名性によって担保されている状況って確かにあります。ただそれは、たとえば“2ちゃんねる”がそのように設計され受容されているからであって、まったく同じ身振りがどこにおいても成り立つと考えるのは稚拙な誤りです。そこは大人であれば、ルール以前に各個人の判断においてまず御されるべきものですよね。他人によりかからない姿勢というニュアンスでは、これをプライドと言い換えてもよいでしょう。少なくともネット上で他人に意見する際に求められる、最低限の矜持だとは言えそうです。
【付記】
このコメントに特定個人への攻撃性を感じるかたのために付言します。彼の見せかけの人格的内実を、最終的にわたしは信用に値せずと判断しました。その判断に従い、彼との間にありえた礼節よりも流れを記事本文につなげることを優先したまでなので、人格攻撃の意図は‘主観的’にはありません。中傷の言明を少なからず伴った匿名の彼が結果として感情を害するとしても、それは何だか奇妙な話です。そしてこの奇妙さと上記の‘つらさ’への言及が書き手としてはこのコメントの要点です。彼個人の人間性はすでに問題ではありません。
実は世代的にブルセラ~オウム辺りの時代にリア厨だったこともあって、宮台氏の著作はよく読んでましたし、実際に好きでした。なんとなく時代の気分を共有できてる気がしたし、自分では言葉に表し難いところを、明快に言い切ってしまう彼の言説が心地よかったんです。この頃は自分の興味の領域が、宮台氏の活動領域とずれてきたのもあって、ほとんど彼の文章を読むこともなくなりましたし、特に好きだというわけでもありません。社会学は漠然と好きなので、宮台氏以外の社会学者の文章もちょこちょこと読んでたけど、指摘の通りそれは多くはなかったです。だから「宮台さんの言動以外でこうしたフレームの話を見聞したことがない」というのは部分的に正しいですねw
まぁ、宮台と呼び捨てにしたのは、特に意味は無いです。リアルで面識がないのに敬称とか付けるのもどうかと思うし、フルネームで書かなくても誰を指しているかわかるだけの特殊な名字だと思うから。
で、本題の
>どのあたりにそれを感じたのかお聞かせいただければ幸。
なんですけど、こう感じた理由の全てを言葉にし尽くすのは私には難しいので簡単に言いますけど、①用語の使い方が、いわゆる普通のDOL関連というか、ネトゲ関連のBlogのそれと違っている、社会評論的な文章を読んでいる感じがする、そういう違和感があったこと、②<~わけです>という断定的な説明口調(宮台もよく使いますよね、「それは社会システム理論で言うと~というわけです」みたいなw、<~であるとすれば、・・・ということになります>みたいな言い方も同様、③上記の通り、この手の文章で一番私が多く読んでたのが宮台だった、この3つかな。何となく雰囲気的に宮台っぽい、というのが正直なところです。そう感じたのが正直な私の気持ちだし、それはどうしようもないですね。宮台の名を出すことで何かを表出しようとしたわけではなく、「あ、この文章、宮台みたい」と感じたのをただそのまま書いただけなので、他意はありません。
良ければ今度ラジオにゲストでお願いします。
まぁ俺は自分が伝えたいことをありのままに話したいって意識があるので、名乗りでてますけど。またブログの本文以外の話、もしくはそれぞれのコメントに対する話ができないので、先日コメントを控えようかと思っていました。
本文に関して強いて言うのであれば、読み手側が理解した上でコメントをするのが正しいのか、goodbyeさんがどういう意図で書いた文章なのか理解できませんでした。これは文章でなにが理解できなかったのか?とは離れた話になりますね。
理解できる文章ではあったとしても、読み手がどうリアクションをすれば良いのかわからないというのが本音ですw
>>重さん:
能登ラジオですね!(ってStratusさんのとは別?^^;) イベント時に何度か聞きました。こういう楽しみかたもあるんだって新鮮だった。
でもゲストはムリかなー。不特定多数の前でこのブログと重なる領域の話をするケースがリアルでもあって、実名付きの音声とかもネット上にあるので、キャラとリアルが結びつくリスクは一応手元に留め置きたいのです。いまフレに話してるのを総合するだけでも勘が良ければたどり着いてしまうので。チャットによるインタヴュー出演とかならアリですけど。
ただこのブログから得る印象は、ゲーム内のフレのそれともリアルとも相当違うはずなので、出てもガッカリされそうですw ちなみに重信さんが迩隗羅さんのオフ会で会っているShizukaさんは、かつて1年以上大海戦を一緒にやったり今もFEZでたまに遊ぶため、ゲーム内のgoodbyeが見せる習性はよく知ってます。次の機会にでも聞いてみるとイメージ変わるかも?
これは嬉しいコメントです。きちんと応じないとですね。ありがとうございました。
まず、「宮台みたい」については完全にわたしの深読みでした。単なる書き捨てかなと思い逆に聞き返してみたのですが、これほど詳しく丁寧なレスがいただけるとはまったくの予想外で、ありがたいことです。先のコメントにおける誤認、失礼いたしました。 リア厨って、その頃に中学生だったってことですよね? とすればちょうど宮台さんがメディアで最も脚光を浴びた時期が思春期に重なる感じでしょうか。(東浩紀さんと同世代というのは当たってるのかな?) わたしは十代後半に当時すでに休筆されていた岡崎京子さんのマンガ経由で見田宗介さんの真木悠介名による著作に触れて異様に深い読書体験を得たクチなので、見田さんを師に数える宮台さんには近い傾向が確かにありそうです。無自覚のうちにそれが文章に出るところも、ご指摘の通りあるのかも。
けれど自分としては、たとえば宮台さんならアイロニカルにしかもう使わないだろう手垢のついた「共同幻想」等のベタな通じやすさを採用したり、彼なら社会的包摂性など独自のタームをはめ込むだろう領域を自他の切り分けだけで押し通しているあたり、あまり似てないよなぁと感じたんですね(笑)。 なので斎藤環を読むDOLプレーヤーなら、全然ラカニアンっぽくないのに自意識とか自傷という単語から斎藤環みたいに感じたり、観察へのシフト具合とか「魔坑」という道元由来のタイトルから宮崎哲弥っぽさを嗅ぎとるというのと同じカテゴライズで受け取ってしまった<わけです>。
> 雰囲気的に宮台っぽい、というのが正直なところです。そう感じたのが正直な私の気持ちだし、
もっとも‘能登通りすがり’さんの感覚が精度の点でそれらとは異なるのも、やはり間違いないと思います。というのもネットなどで時々触れる宮台さんの‘説明’は、他の社会科学系の学者たちが語るどれよりも個人的に納得がゆくからです。けれど‘説明’として納得はできても共感できるかといえば、一回り下の東浩紀さんの言説の方が共感可能な部分は多く、最近ではさらに下の鈴木謙介さんの発想に面白さを覚えています。記事本文には彼から借用した表現も実はあります。鈴木さんは宮台さんの直系の教え子ですから、あとはもう言わずもがなですね。年齢がより近いだけという説も(焦)。
それとこういう文脈だと、メディアに露出度の高い名前でないとたしかに例示する意味も薄くなりますね。「人口に膾炙した名を出すだけで~」の箇所はその意味でも不十分でした。時間があれば文章を全て読みたいと思うのは中井久夫さんとか林道郎さんとか、むしろもう少しマイナーな人たちが多かったり。露出度のあるひとほど、出版社の思惑か何度も同じこと書きますよね。
ただ、であれば見田さんや宮台さんのいた駒場東大に興味を持ったかといえば、一瞬の思いつきとしてはあったけど、結果的にはいわゆる‘文系’ですらない道行きを選びました。だからこそ、遊びとしてこうしたブログを続ける動機付けも成立するのだと思います。それは仰る通り普通のDOL関連やネトゲ関連のブログとは違う印象を与える原因にあるだろうし、プレイヤーブログというより社会評論っぽく見えて当然かも。とはいえ宮台さんの場合、どのコンテクストにおいても専門性を前提に喋ることができますよね。けれどこの場で「ニクラス・ルーマンが言うように」などと始めても痛さが倍増するだけで、読み手との共有度は深まるはずもありません。そこは時折制約にも感じます。コメント感謝でした。
>キャラ名を出せということなら(略)
>ただ、俺になにかを求めるのであれば、ここで話すのは筋違いだと感じました。
彼による「三文字さんもそう思わない?」の発言についてですね。「三文字=迩隗羅さんもgoodbyeの海戦記事読みたいよね? or 書けるのgoodbyeだけと思うよね?」という文意ですが、これは「俺は迩隗羅その他もろもろの意見を代表してるんだよ」的自己アピールに力点があり、実際に迩隗羅さんがわたしの海戦記事についてどう思うか、どう答えるかなど二の次だろうと思います。
要するに「筋違い」というよりも単に他人へのリスペクト不在の発言で、「無名なので意味もない」という彼の言明は、逆なんですね。匿名発言をする意味が彼にとってのみあったんです。最初からキャラ名を出して書き込んだら、いくら彼でもこうなったかは疑問です。この甘えのみっともなさについては3月18日11:17のコメントに詳述しました。
> どういう意図で書いた文章なのか理解できませんでした。
> 読み手がどうリアクションをすれば良いのかわからないというのが本音ですw
こちらが本題ですね。わたしは‘大航海時代Online’が初めてのネットゲームだったので、あらゆることが新鮮な状態からのスタートでした。その驚きの輪郭を見定めるのが、ブログ全体を貫く執筆意図にまずあります。
【ネガティヴ・シフト】
で、迩隗羅さんとの戦闘がネタの一つにもなった“海のなかの見えない航路”という記事シリーズは、このゲームから得た新しい感覚のうち、主にポジティヴな側面を文字にする試みでした。誤解を恐れずに言えば、この“ ネットゲーム魔坑にて”のカテゴリーは、逆にネガティヴな側面を扱うものと位置づけてます。ポジティヴなものについて書くときは感情も乗りやすく、主観的にもかなり気合が入ります。けれどネガティヴなものについては、思い入れも薄いため思考だけが走りやすく、いきおい外見上は‘難解’な字ヅラが並び、他に比べて論理的であっても共感は得にくい文章になっていると思います。
けれど、それなら書かなければいいのに、ともいきません。のどに引っかかった魚の骨のように残り続けている感じはずっとあって、けれどいつか書く気になるさと放置していても、結局ちゃんとした形で書き出すことはこの先もなさそうだと思ったわけです。しかしここを避けたままこのブログが終了を迎えるとすれば、‘なにかやり切らなかった感’があとに残るともぼんやり思ってました。具体的な方向性が固まるのを待つのではなく、他プレイヤーとの受け答えの過程こそを記事化してしまおう、という書き方で始めたのはそのためです。半ばなし崩し的に、その途上で‘魚の骨’をあぶり出せれば良しとしよう、という感じです。
【リアクション、について】
現時点で「魔坑にて 壱」はコメントが40、今回の記事もすでに18を数えるのに対し、間にある映画記事(前回記事)は0ですよね。でも3年間この場を続けてきた書き手の感触としては、この計60近いコメントが付随する2つの記事より、コメント0個の映画記事のほうが、支持する読み手のかたは恐らく多いです。そういうひとたちの一部から「どうリアクションすれば良いかわからないからコメントできないけど、毎回読んでる」という種の感想をゲーム内でもらうことは、実際たまにあるんですね。その一方、ゲームブログなんだからゲーム以外のことは余計だろう、という種のひとから見れば、こうした映画記事など自己完結した‘意図’不明の記事群にしか見えてないと思います。
こちらの労力は同じでも直接の反応にここまで差が出ることに、以前は寂しさを感じたこともありました。でもある頃からコミュニケーションのありかたとして、これはこれでありだなぁと思うようになったんですね。何も即時的な反応のやり取りだけが大事なんじゃなくて、一見こちらは淡々と書いているだけ、読むひともたまに読み流すだけという関係のほうが、ずっと長い目で見れば携帯で日々何十とメールを取り交わす関係よりも深いこともありうるだろう、という感じです。
時間の制約から読みにくさを感じつつ更新してしまう部分もあるのですが、リアクションしやすいような配慮を必ずしも毎回心がけてはいないのは、そういう理由もあったりします。それでも迩隗羅さんのように、率直な反応をもらえるのはなおありがたいことです。
ただ、一つ言えることは、無理にコメントを入れてしまって失敗だったなぁということと。
goodbyeさんのブログですから、こちら側が理解する必要があるなぁと思いましたね。
まぁどんな記事でも愛読しているブログの一つなので更新楽しみに待っています^^
以前にもチラチラ読んではいたんですが、今日はゲームへINする代わりに通しで読みました。
読んで、なんというのかな、コメントしてるキャラ名の人も匿名の人も、一所懸命みんなして水底の管理人さんに手を差しのべてるような、そんな光景がふと心に浮かびました。
なぜそんな景色が思いうかんだのか考えてみると、このエントリ、コメントに対するリスポンスとして始まっていながら、本論の前で切断されていてとてもフックしにくい。意図を隠しながら、結論も伏せてある。にもかかわらず、コメントをねがう旨で末尾が締められている。すごく不条理なんですね。
そういう体裁の記事だから、みんなどうリアクションすればいいかわからないままでコメントしていて、攻撃してる人や自分の読書体験を語りだしてる人もいて。きっとそんなこんなはぜんぶgoodbyeさんの想定どおりなんだろう。思いかえせば、見田さんの相関授業もこんな感じだった気がする。
無理を承知で書かれたエントリに、みんなが無理にコメントしているよ。土下座してるの、煽りっぽいの、真面目なの、カブトムシっぽいの。みんなコメントしていて苦しそう。その様子が、報われない愛の見本市に見えてしかたのない、私。
# 前回の鄭和さんのコメントの最後に「なぜならそれが美徳だと思っているから。」とありました。エントリ+コメントの核心に近いはずのこのフレーズに、だれも絡まなかったのはどうしてなんだろう。
失敗に感じたと言うのはたぶん最初のコメントでしょうか。キャラ名のあるコメント、特にその記名性の向こうにかなりの量のプレイ履歴やブログがあって発言の傾向が分かるひとのそれの場合、どんな文言でもそのものとして通じますよね。だからまったく気にならなかったというか、むしろ素朴に反射的な軽口としてそうなんだろうなあと思えるものでした。
逆に以前から長く読んでもらっていたかたの率直な感想を、迩隗羅さんは唯一記名性のある形で文字にしてくれたかたなので、とても得るものがありました。そこはお付き合いいただき感謝です。長い文章、消えてしまって残念。
> このエントリ、コメントに対するリスポンスとして始まっていながら、~
ここはご指摘の通りですね。でも「想定通り」ではなく、結果としてそうなってしまったというのが実態です。今回、実は2倍近い文章を一度挙げてしまい、多過ぎるので更新し直したんですね。主に後半部を切ったので‘続き’の予告となったのですが、コメントよろしくの部分は残しました。なのでコメント依頼はこの記事シリーズ全体に掛かっており、続きは続きとして後日挙げる予定だったことが、軽ファンネルさんに「すごく不条理」な印象を与えた原因にありそうです。至らず申し訳ありません。
> 無理を承知で書かれた(略)その様子が、報われない愛の見本市に見えてしかたのない、私。
ただ「結論」については、どんな文章でも一行に要約しようと思えばできるし、その一行を結論と言ってしまえば言えますよね。文字通りその一行なり数行なりで構成されたブログも実際たくさんあります。しかし書き手の主張としての結論というニュアンスであれば、それをシンプルに明言できるようなテーマの記事化にはそもそもあまり関心が湧きません。たまにしかプレイ報告的な記事を書く気にならないのもそのためです。それが続いた結果として今のスタイルがあるので、全体としてはそれを面白いと思うひとしか読み手として根付かないのは仕方ないと思ってますし、個別に軽ファンネルさんのコメントについて言えば、今回についてのみ「無理にコメント」させる原因にコメント依頼の文章が強く影響したなら、それは上記の通り書き方を誤ったかもしれません。
ともあれこうした経緯も込みで結果的にこうした流れが生まれたのは想定外ですが、何かしらの流れがコメント欄に生まれることを期待したのも確かです。明確に隠された意図があると軽ファンネルさんには思えたとしても、その枠組みを用意する以上の何かがあるのかといえば、そこは他のコメントで述べた感じでたとえ意識下にあってもそれ自体を言語化できるのか、することに意味があるのかも今のところわかりません。敢えて言えば、たぶんそこが重要なポイントにはならないだろうと予感します。
鄭和さんのコメント末尾については、誰も絡まなかった理由には関心がもてませんが、軽ファンネルさんが絡むなら何を言うかには興味があります。ブログはある程度時差を許容するメディアです。思うところあれば今からでも書き込み下さい。見田さんの授業を聴かれたことがあるんですね。それは素敵。
ある具体的な事象について、採りうるロジカルタイプは原理的に無限です。この「魔坑にて」の記事カテゴリーの場合その階層性が最も顕著に現れるのが発話者の立場を巡ってということになりますが、個人的に最も意外だったのは記名性のあるコメントにおいて、予想外に多くのかたにきちんと各々の考えを述べていただけたことです。
その一方で、いわゆる書き捨て系のコメントは言及の方向性が画一的なものしか出てこないのも印象的です。このコメント欄の中盤では一度「匿名による自己承認欲求」を扱いました(3月18日11:17のコメント)が、これはかなり以前から様々な場で目にするこの種のコメントについて感じてきたことを言語化するのが目的でした。この傾向のコメントについては発話者個人の人間性は問題外としたまま、とりたてて何の齟齬もなくその極めて凡庸な欲求について語れてしまう。
ここで一つ気になったのは、だとしてもそれをどう読むかについての恣意性をまだ掬いきれてないということです。たとえばこの「魔坑にて 壱」や「弐」でのコメントのやり取りをすべて通読したとしても、優劣感こそが大事なひとにはそれを巡るコンプレックスの交換にしか見えていない、喜怒哀楽が大事なひとには感情の応酬にしかたぶん見えない。それらがこの場においては根本的にどうでもいい問題としてあるとしても、そうあるような階層で何かを考えることはたぶんない。けれどもその断絶は、あくまで願望としてだけれどぜひとも架橋してみたいところなんですね。
特に「魔坑にて 壱」のコメント欄中盤で、わたしがレスをする間もなくゲーム内における「転売行為」一般を巡る様々な意見が寄せられたことなどは、その意味で今後一番の収穫になってゆくのかもしれません。他人のブログをきちんと読んだうえで自分の思考を整理して言語化しコメントに残すという作業は、誰にとっても決していつもできることではないでしょうからね。しかもたまにしか更新しないようなブログに、です。そこはありがたいことだし、わたし個人にとっても有意義なことだと思っています。
また文面を通じて「自分の印象を下げる」「上げる」ことが大事なら、そもそもキャラ名でこうした長文ブログを書くこと全体が壮大な無駄ですよね。それを強さや弱さの読み取りに直結させる発想はそれほどの妥当なものとも思えません。記事数100を超えるこのブログのうち、あなたはこの記事のみかせいぜい数本の記事を根拠に書き手の全人格をも推し量れるかのような口ぶりで書き殴っていますが、それこそあなた自身が恐らく好まぬであろう憶見ではありませんか?
この文体や姿勢はこのブログ向けに立てているキャラに過ぎず、ゲーム内で同タイプの会話をしているわけがないことくらい、ここにコメントを返していただいているかたの多くが言前に了解していることです。わたしも正直な感想で返せばその意味では、ドラマの役柄と俳優の人格とを履き違える子供と同じ印象を持ちました。違うのは、履き違えたからといってそれをむき出しにする子供は最近見ないということくらいです。
匿名であるからこそ、書いてしまったことの心的負債はあなた自身だけにのしかかってきます。この記事を目にして言い知れぬ劣感情を覚えたのであれば、依存心をむき出しにする前に、まずそのことに自覚的になることをお勧めします。