1748年、2人組の盗賊がその噂でロンドン中を賑わせます。“紳士怪盗”("the Gentleman Highwayman")とあだ名された彼らの特徴は‘貴族からしか盗まない’こと、そしてあくまで‘紳士的に盗む’こと。史実上のこの事件を元に、映画はこの種の作品としては珍しいほどのパンキッシュな演出とともに展開されます。
2人組の片割れ、ロバート・カーライル演じる元薬剤師のプランケットは商売に失敗しすべてを失ったのち盗賊稼業に手を染めます。ジョニー・リー・ミラー演じるマクレーンは聖職者の家に生まれて身を持ち崩し、社交界への復帰を夢みつつも酒に溺れているころ相棒プランケットに出会います。墓場で出会った2人は獄中で‘紳士協定’を結び一気にその名を馳せてゆくのですが、こうしたストーリーがとてもスピーディに展開されるため、終始MTVを見ているかのような感覚に襲われるひともいるかもしれません。
なかでも圧巻なのは前半の山場、リヴ・タイラー扮するヒロインとマクレーンが初めて出会う晩餐会の場面。着飾った貴族たちによる群舞の旋律に合わせ複数の登場人物たちにより重層的に会話が進行していくのですが、そのいずれもがストーリー進行を決定づける役割を果たしており、権謀術数の渦巻くヨーロッパ社交界のいわば沸騰点のような存在としての晩餐会がもつ高揚感をうまく描出しているように思います。
時間にして約5分の短いこのシークエンスでは、まず通底音として弦楽音を基調とするビートの利いたBGMが流れ出し、異様な静止ポーズを交えた群舞を織りなす無数の男女と宮殿の大広間中央に配置された奇怪な巨大オブジェが遠景に映し出され、何かと主人公たちを助けるバイセクシュアルの貴族ローチェスター卿の案内で主要な貴族たちが次々に紹介されていきます。群舞の進行に併せてBGMも段々と盛り上がっていくのだけれど、この展開が極めて鮮やか、局所的に配される静止も巧みで引きと寄せの緩急があらゆる面で利いており、作品のエッセンスがすべてここに集約、昇華されていると言って良い名シーンになっています。
実を言うと、現在公開中の古代スパルタ軍とレオニダス王を素材とした映画“300<スリーハンドレッド>”を観たことが、この作品を思い出した直接のきっかけだったりします。これら両作品に共通するのは、ある部分では時代背景にかなり忠実な一面をみせつつも、別の部分では過剰とも言えるほどに文化考証を無視した演出が施されていることです。この点を認めるか認めないかでこの種の作品を巡る評価は大きく分かれることになりますが、そもそもこうした方向性は失敗の危険が高いことから実現化へ至るケース自体が稀なんですね。ただ一方でその時代の音楽、その時代の事物に忠実であればその時代精神の的確な表現になるかと言えば、これはこれでまったく別の話であることも確かです。
では“プランケット&マクレーン”においてこの試みは成功しているのかどうか。わたしの答えは大いにYesです。その根拠としては上記の1シーンだけを挙げれば十分な気もします。レンタル版DVDでは37:14-42:32‘夜会’の章がこれに当たります。このシーンで使われたBGMなんてクラシックどころかハイパーテクノなんですけどね(笑)、この作品ののちハリウッドの他作品でもよく使われる定番の1つになりました。
ちなみにこのマクレーン、史実では1750年に処刑台にて最期を迎えるのですがその後ジョン・ゲイの戯曲『乞食オペラ』のモデルとなり、ブレヒトはこの戯曲を元に『三文オペラ』を書きあげたといいますから、当時の人々のあいだでその悪名とは裏腹にかなりの人気を誇っていたことが窺えます。また2人は作品中で追っ手から逃れてあらゆる束縛から自由な土地‘アメリカ’を目指すのですが、対照的なのがローチェスター卿のさいごのセリフ。
「新しい世界は遠すぎるし、広すぎるし、野蛮だわ。
これからもわたしはここで若い男の子たちを堕落させていきたいの」 (筆者訳)
彼は登場するのっけから両刀使いであることを軽々と告白するのですが、その時のセリフ‘I swing everywhere.’とラストでのこのセリフが見せるコントラストは、大航海時代から近代へと移りつつある当時の人々が感じただろう世界の広がりと階層社会の窮屈さをうまく捉えているように思います。
監督はジェイク・スコット。“ブレードランナー”“ブラックホーク・ダウン”などのリドリー・スコットを父に、“トップガン ”“デイズ・オブ・サンダー ”のトニー・スコットを叔父にもつサラブレットの映画監督デビュー作がこの作品でしたから大いに期待されるところですが、その後はいまだ鳴かず飛ばず。ロバート・カーライルは“トレインスポッティング”の大ヒットをきっかけにハリウッドへ進出しますが、元々イギリス下層社会の男を演じ続けて評価を固めた役者なので、この作品をその延長線上に位置づけてもよさそうです。また名優ゲイリー・オールドマンが製作・総指揮で参加しています。
映画“300”を記事にすることも考えたのですが、そこはこのブログにふさわしいほうを選んでみました。“300”の評価関連については相互リンクのある秋林さんのブログに詳しいので、下記に記事URLを紹介させていただきます。
http://diarynote.jp/d/25683/20070316.html
"Plunkett & Macleane" by Jake Scott / Robert Carlyle,Jonny Lee Miller,Liv Tyler,Alan Cumming,Michael Gambon / Gary Oldman [executive prd.] / Craig Armstrong [music] / 100min / UK / 1999
2人組の片割れ、ロバート・カーライル演じる元薬剤師のプランケットは商売に失敗しすべてを失ったのち盗賊稼業に手を染めます。ジョニー・リー・ミラー演じるマクレーンは聖職者の家に生まれて身を持ち崩し、社交界への復帰を夢みつつも酒に溺れているころ相棒プランケットに出会います。墓場で出会った2人は獄中で‘紳士協定’を結び一気にその名を馳せてゆくのですが、こうしたストーリーがとてもスピーディに展開されるため、終始MTVを見ているかのような感覚に襲われるひともいるかもしれません。
なかでも圧巻なのは前半の山場、リヴ・タイラー扮するヒロインとマクレーンが初めて出会う晩餐会の場面。着飾った貴族たちによる群舞の旋律に合わせ複数の登場人物たちにより重層的に会話が進行していくのですが、そのいずれもがストーリー進行を決定づける役割を果たしており、権謀術数の渦巻くヨーロッパ社交界のいわば沸騰点のような存在としての晩餐会がもつ高揚感をうまく描出しているように思います。
時間にして約5分の短いこのシークエンスでは、まず通底音として弦楽音を基調とするビートの利いたBGMが流れ出し、異様な静止ポーズを交えた群舞を織りなす無数の男女と宮殿の大広間中央に配置された奇怪な巨大オブジェが遠景に映し出され、何かと主人公たちを助けるバイセクシュアルの貴族ローチェスター卿の案内で主要な貴族たちが次々に紹介されていきます。群舞の進行に併せてBGMも段々と盛り上がっていくのだけれど、この展開が極めて鮮やか、局所的に配される静止も巧みで引きと寄せの緩急があらゆる面で利いており、作品のエッセンスがすべてここに集約、昇華されていると言って良い名シーンになっています。
実を言うと、現在公開中の古代スパルタ軍とレオニダス王を素材とした映画“300<スリーハンドレッド>”を観たことが、この作品を思い出した直接のきっかけだったりします。これら両作品に共通するのは、ある部分では時代背景にかなり忠実な一面をみせつつも、別の部分では過剰とも言えるほどに文化考証を無視した演出が施されていることです。この点を認めるか認めないかでこの種の作品を巡る評価は大きく分かれることになりますが、そもそもこうした方向性は失敗の危険が高いことから実現化へ至るケース自体が稀なんですね。ただ一方でその時代の音楽、その時代の事物に忠実であればその時代精神の的確な表現になるかと言えば、これはこれでまったく別の話であることも確かです。
では“プランケット&マクレーン”においてこの試みは成功しているのかどうか。わたしの答えは大いにYesです。その根拠としては上記の1シーンだけを挙げれば十分な気もします。レンタル版DVDでは37:14-42:32‘夜会’の章がこれに当たります。このシーンで使われたBGMなんてクラシックどころかハイパーテクノなんですけどね(笑)、この作品ののちハリウッドの他作品でもよく使われる定番の1つになりました。
ちなみにこのマクレーン、史実では1750年に処刑台にて最期を迎えるのですがその後ジョン・ゲイの戯曲『乞食オペラ』のモデルとなり、ブレヒトはこの戯曲を元に『三文オペラ』を書きあげたといいますから、当時の人々のあいだでその悪名とは裏腹にかなりの人気を誇っていたことが窺えます。また2人は作品中で追っ手から逃れてあらゆる束縛から自由な土地‘アメリカ’を目指すのですが、対照的なのがローチェスター卿のさいごのセリフ。
「新しい世界は遠すぎるし、広すぎるし、野蛮だわ。
これからもわたしはここで若い男の子たちを堕落させていきたいの」 (筆者訳)
彼は登場するのっけから両刀使いであることを軽々と告白するのですが、その時のセリフ‘I swing everywhere.’とラストでのこのセリフが見せるコントラストは、大航海時代から近代へと移りつつある当時の人々が感じただろう世界の広がりと階層社会の窮屈さをうまく捉えているように思います。
監督はジェイク・スコット。“ブレードランナー”“ブラックホーク・ダウン”などのリドリー・スコットを父に、“トップガン ”“デイズ・オブ・サンダー ”のトニー・スコットを叔父にもつサラブレットの映画監督デビュー作がこの作品でしたから大いに期待されるところですが、その後はいまだ鳴かず飛ばず。ロバート・カーライルは“トレインスポッティング”の大ヒットをきっかけにハリウッドへ進出しますが、元々イギリス下層社会の男を演じ続けて評価を固めた役者なので、この作品をその延長線上に位置づけてもよさそうです。また名優ゲイリー・オールドマンが製作・総指揮で参加しています。
映画“300”を記事にすることも考えたのですが、そこはこのブログにふさわしいほうを選んでみました。“300”の評価関連については相互リンクのある秋林さんのブログに詳しいので、下記に記事URLを紹介させていただきます。
http://diarynote.jp/d/25683/20070316.html
"Plunkett & Macleane" by Jake Scott / Robert Carlyle,Jonny Lee Miller,Liv Tyler,Alan Cumming,Michael Gambon / Gary Oldman [executive prd.] / Craig Armstrong [music] / 100min / UK / 1999
コメント
こちらも貼らせてもらいますね。
よろしくです( ゜∀゜)ゝ”
すごい迫力でした。いわゆるファランクス戦法が非常に強かったとは史実の本で読んでいたのですが、いまいち実感がつかめなかったところ、この映画を見て実感を得ました。
ぐびさんの紹介してくれたリンク先で、「イラン人が怒った」などと記述されていましたね。確かに、人間とは思えない兵士が数名出てましたが(笑)全体的に見てそこまで荒唐無稽な叙述もなかったなーと思いました。
反面、本国での王妃の行動を巡るあたりは、作品に必要だったのかどうか。
全体的評価は、95%。カリビアン3が辛めの60%なのでかなり高評価です。
駄文失礼しました。
はい〜 よろしく〜^^
> 七誌さん:
銀色の仮面をかぶったペルシア軍親衛隊の兵士なんて忍者もどきでしたよねw 根っこにある反米感情のはけ口として都合が良かっただけで、こういう問題って表現そのものに深刻な原因があることはほとんどないと思います。戦後のハリウッド映画には日本文化・日本人を酷く曲解した映画は大量にありますが、反対のムーヴメントが起きたことはおそらく皆無ですよね。
そもそもこの時代のギリシアもまた非キリスト教世界で、映画に出てくるスパルタの異教的な雰囲気満載な長老たちなんてあの醜さはペルシア軍の比じゃないんですけどね(笑) 憤ってるイラン人のかたはその点をどう考えてるんでしょうか。
なぜ300という少数で戦う必要が生じたのか、これを説得的に描くことは、ただでさえアメコミちっくなこの作品へ深みを与えるためには極めて重要なポイントだったろうと思います。なので本国のシーンはこの限りでは不可欠なのですが、一方でこの手の戦争ものやアクションものでストーリーの本筋には必要ない女性が登場して枝葉の場面で悪役に翻弄されるという安易さというかおバカさもまぁ、お約束みたいなものですね^^; 書き込みありでした^^
たしかに・・・w
特に刀とか。映画と見た後、wikiなどで調べたところ「不死隊」は実在したようです。まぁ外見はああだったかどうか・・w
>根っこにある反米感情のはけ口
反米感情が根っこにあるんですか。思い至りませんでした。
>本筋には必要ない女性が登場して枝葉の場面で悪役に翻弄されるという安易さというかおバカさもまぁ、お約束みたいなものですね
なるほど!普段あまり映画を見ないもので、勉強になりました。
以前、ジョディフォスターの「コンタクト」という映画を見て、日本描写がヒドいな・・・と思ったことがありました。ジョディは日本通って聞くんですけどねえ
あとランボー2?に出てくるベトコン兵士の格好がカンボジアポルポト派の格好らしく、ベトナム人は怒るとか聞いたことがあります
なかなか難しいですが、基本的な下調査はするのが礼儀ですよね
「300」に関しては、資料が稀少だろうのでしょうがないんじゃないかと思っております。
おっとここまで書いて、上記の「反米感情」はくだんのイラン人に在中する感情のことかもと思い至りました。合点がいきました。
駄文失礼しました。あとお返事うれしかったです。